1274年・文永11年 甲戌(きのえいぬ) 53歳

亀山天皇

後宇多天皇 在位1274[文永11]126日~1287[弘安10]1021

 

北条時宗

 

114

書を門下一同に与う

「法華行者逢難事(ほっけぎょうじゃほうなんじ)

(1-140P796、創新127P1301、校1-141P842、全P965、新P719)

佐渡一谷・富木常忍

創価学会新版・門下一同

 

真蹟8紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

身延三世日進本・身延山蔵

 

※日興写断片・香川県三豊市三野町下高瀬 讃岐本門寺

坂井法曄氏の論考「日興写本をめぐる諸問題について」(興風21P242)

 

日朝本 満上242 平16

録内17-1 遺16-1 縮1024

 

*昭和定本「法華行者値難事」

創価学会新版「法華行者逢難事」

平成校定「法華行者値難事(法華行者逢難事)

全集「法華行者逢難事」

 *国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(19131914年 神保弁静編)

法華行者逢難事

 

 

本門の本尊と四菩薩・戒壇・南無妙法蓮華経の五字

追って申す。竜樹・天親は共に千部の論師なり。但権大乗を申()べて法華経をば心に存して口に吐きたまはず、此に口伝有り。天台・伝教は之を宣()べて本門の本尊と四菩薩・戒壇・南無妙法蓮華経の五字と、之を残したまふ。

所詮、一には仏授与したまはざるが故に、二には時機未熟の故なり。今既に時来たれり、四菩薩出現したまはんか。日蓮此の事先()づ之を知りぬ。西王母(せいおうぼ)の先相には青鳥(せいちょう)、客人の来相には(かんじゃく)是なり。各々我が弟子たらん者は深く此の由を存ぜよ。設ひ身命に及ぶとも退転すること莫(なか)れ。 

 

 

123

佐渡国西方に二の日出現(法華取要抄・全P336)

 

 

25

佐渡国東方に二の明星出現(法華取要抄・全P336)

 

 

214

幕府 日蓮流罪の赦免状を発する(種種御振舞御書・定P978、光日房御書・定P1155)

 

 

215

書を著すと伝う

授職灌頂口伝抄」

(1-141P800)

佐渡一谷

本満寺本 真蹟なし

録外18-20 遺16-4 縮1027

*平成校定は偽書として不収録

 

 

221

書を北条弥源太に報ず

「弥源太殿御返事(やげんたどのごへんじ)

(1-142P805、創新246P1698、校1-142P845、全P1226、新P722)

佐渡一谷・源太入道

創価学会新版・北条源太

 

日朝本 真蹟なし

録外22-33 遺16-8 縮1032 

*全集「弥源太殿御返事(善悪二刀御書)

 

 

善の刀

又御祈のために御太刀(たち)同じく刀あはせて二つ送り給はて候。此の太刀はしかるべきかぢ(鍛冶)作り候かと覚へ候。あまくに(天国)、或は鬼き()り、或はやつるぎ(八剣)、異朝にはかむしゃう(干将)ばくや(莫耶)が剣に争(いか)でかこと()なるべきや。此を法華経にまいらせ給ふ。殿の御もちの時は悪の刀、今仏前へまいりぬれば善の刀なるべし。譬へば鬼の道心をおこしたらんが如し。あら不思議や、不思議や。後生には此の刀をつえ()とたのみ給ふべし。

 

 

*釈迦仏・多宝仏・上行等の四菩薩は手を取り給ふべし

法華経は三世の諸仏発心のつえ()にて候ぞかし。但し日蓮をつえ()はしら()ともたのみ給ふべし。けは()しき山、あしき道、つえをつきぬればたをれず。殊(こと)に手をひかれぬればまろ()ぶ事なし。南無妙法蓮経は死出(しで)の山にてはつえはしらとなり給へ。釈迦仏・多宝仏・上行等の四菩薩は手を取り給ふべし。日蓮さきに立ち候はゞ御迎へにまいり候事もやあらんずらん。又さきに行かせ給はゞ、日蓮必ず閻魔法王にも委(くわ)しく申すべく候。此の事少しもそら()事あるべからず。日蓮法華経の文の如くならば通塞(つうそく)の案内者なり。只一心に信心おはして霊山を期し給へ。

 

 

38

赦免状 佐渡に着く(種種御振舞御書・定P978、光日房御書・定P1155、種種御振舞御書・全P920)

「種種御振舞御書」真蹟曽存

去ぬる文永十一年二月十四日御赦免の状、同じき三月八日に島につきぬ。

 

 

312

書を遠藤左衛門尉に報ずと伝う

「遠藤左衛門尉御書(えんどうさえもんのじょうごしょ)

(3続編29P2102、創新275P1773、全P1336)

佐渡・遠藤左衛門尉

 

真蹟なし

16-10 縮1035

*平成校定は偽書として不収録

*縮「北越 五箇邑(ごかむら) 某家 真蹟所蔵」

 

 

*本文

日蓮此の度赦免を被むり鎌倉へ登るにて候、如我昔所願今者已満足此の年に当るか

 

 

313

佐渡 一の谷を出発(光日房御書・定P1155、同・全P928)

 

「種種御振舞御書」真蹟曽存

三月十三日に島を立ちて、同じき三月二十六日に鎌倉へ打ち入りぬ。

 

「光日房御書」建治23月 真蹟

文永十一年二月十四日の御赦免状(しゃめんじょう)、同三月八日に佐渡の国につきぬ。同十三日に国を立ちてまうら(真浦)というつ()にを()りて、十四日はか()のつ()にとゞまり、同じき十五日に越後の寺どまり()のつ()につくべきが、大風にはなたれ、さいわ()ひにふつかぢ(二日路)をすぎて、かしはざき(柏崎)につきて、次の日はこう(国府)につき、十二日をへて三月二十六日に鎌倉へ入り、

 

 

313

妙円尼 世尊寺に葬られると伝う(佐渡世尊寺縁起)

 

 

314

日蓮一行 真浦に滞留(光日房御書・全P928)

 

 

316

日蓮一行 越後国柏崎に着く(P928)

 

 

317

日蓮一行 国府に着く(P928)

 

 

326

日蓮一行 鎌倉に着く(光日房御書・定P1155、報恩抄・全P323) 

 

 

48

日蓮 平左衛門尉頼綱と対面する〔第3回国諫〕

 

「光日房御書」建治23月 真蹟

同じき四月八日に平左衛門尉に見参(げんざん)す。本よりご()せし事なれば、日本国のほろびんを助けんがために、三度いさ()めんに御用ひなくば、山林にまじわるべきよし存ぜしゆへに、同五月十二日に鎌倉をいでぬ。

 

 

「法蓮抄」建治元年4月 真蹟

又去年の四月八日に平左衛門尉に対面の時、蒙古国は何比(いつごろ)かよせ候べきと問ふに、答へて云はく、経文は月日をさゝず、但し天眼(てんげん)のいかり頻(しき)りなり、今年をばすぐべからずと申したりき。

是等は如何にとして知るべしと人疑ふべし。予不肖(ふしょう)の身なれども、法華経を弘通する行者を王臣人民之を怨(あだ)む間、法華経の座にて守護せんと誓ひをなせる地神いかりをなして身をふるひ、天神身より光を出だして此の国をおどす。いかに諫むれども用ひざれば、結句(けっく)は人の身に入って自界叛逆せしめ、他国より責むべし。

 

 

「高橋入道殿御返事」建治元年712日 真蹟

去年の二月に御勘気をゆ()りて、三月の十三日に佐渡の国を立ち、同月の二十六日にかまくらに入り、同じき四月の八日、平さえもの尉にあひたりし時、やうやうの事どもと()いし中に、蒙古国はいつよすべきと申せしかば、今年よすべし。

それにとて日蓮はな()して日本国にたすくべき者一人もなし。たすからんとをも()わしたまうならば、日本国の念仏者と禅と律僧等の頸を切ってゆい(由比)のはま()にかくべし。それも今はすぎぬ。

但し皆人のをもひて候は、日蓮をば念仏師と禅と律をそしるとをもいて候。これは物のかずにてかずならず。

真言宗と申す宗がうるわしき日本国の大いなる呪咀(じゅそ)の悪法なり。弘法大師と慈覚大師、此の事にまどいて此の国を亡ぼさんとするなり。設ひ二年三年にやぶ()るべき国なりとも、真言師にいの()らする程ならば、一年半年に此の国にせめらるべしと申しきかせ候ひき。

 

 

4

書を著す

「未驚天聴御書」

(1-143P808、校1-143P847、新P724)

鎌倉

真蹟2行断簡・京都府京都市山科区御陵大岩 本圀寺蔵

 

*本文

之を申すと雖も、未だ天聴を驚かさざるか。事三ヶ度に及ぶ。今、諌暁を止むべし。後悔を至す勿れ。

 

 

410

幕府、加賀法印定清=阿弥陀堂法印に祈雨の祈祷を命じる(種種御振舞御書・P980・同・全P921)

 

「種種御振舞御書」真蹟曽存

同四月十日より阿弥陀堂法印に仰せ付けられて雨の御いのりあり

 

 

411

雨が降り、時宗は金三十両、馬等、様々な引き出物を出す

 

「同」

それに随ひて十日よりの祈雨に十一日に大雨下りて風ふかず、雨しづかにて一日一夜ふりしかば、守殿(こうどの)御感のあまりに、金三十両、むま()、やうやうの御ひ()きで()物ありときこふ。

 

 

412

鎌倉に大風が吹き荒れる

 

「同」

いゐもあはせず大風吹き来たる。大小の舎宅・堂塔・古木・御所等を、或は天に吹きのぼせ、或は地に吹きいれ、そらには大なる光物とび、地には棟梁みだれたり。人々をもふ()きころ()し、牛馬をゝ()くたふ()れぬ。

悪風なれども、秋は時なればなをゆる()すかたもあり。此(これ)は夏四月なり、其の上、日本国にはふかず、但関東八箇国なり。八箇国にも武蔵・相模の両国なり。両国の中には相州につよくふく。相州にもかまくら(鎌倉)、かまくらにも御所・若宮・建長寺・極楽寺等につよくふけり。たゞ事ともみへず。ひとへにこのいの()りのゆへ()にやとをぼ()へて、わらひ口すくめせし人々も、けふ()さめてありし上、我が弟子どもゝあら不思議やと舌をふるう。

 

⇒阿弥陀堂法印の祈雨の功か?

鎌倉に雨が降ったことにより、幕府は法印に褒美を与え、人々は日蓮をあざ笑う。日蓮一門の弟子達は「いかなることか」と動揺する。

日蓮が真言の悪現証、「真言師の祈雨」について説明していたところ、鎌倉は突然の大風に襲われる。

その凄まじさ、被害の甚大さに、日蓮をあざ笑っていた人々は興醒め、弟子達は「不思議なことである」と驚く。

 

 

「八幡宮造営事」弘安4526日 延山録外

去ぬる文永十一年四月十二日に、大風(だいふう)ふきて其の年他国よりおそひ来たるべき前相なり。風は是天地の使ひなり。まつり事あらければ風あらしと申すは是なり。

 

⇒日蓮はこの大風は蒙古襲来の前相であると見ていた

 

 

512

日蓮一行 鎌倉出発(報恩抄・定P1239、同・全P323)

 

「種種御振舞御書」真蹟曽存

本よりご()せし事なれば、三度国をいさ()めんにもちゐずば国をさ()るべしと。されば同五月十二日にかまくらをいでて此の山に入る。

 

 

◇道中、駿河国、高橋入道のところに立ち寄らなかった理由について

「高橋入道殿御返事」建治元年712日 真蹟

今一度はみたてまつらんと千度をもひしかども、心に心をたゝかいてすぎ候ひき。そのゆへはするがの国は守殿の御領、ことにふじなんどは御家尼ごぜんの内の人々多し。故最明寺殿・極楽寺殿の御かたきといきどをらせ給ふなれば、きゝつけられば各々の御なげきなるべしとをもひし心計りなり。いまにいたるまでも不便にをもひまいらせ候へば御返事までも申さず候ひき。

 

⇒後家尼御前(最明寺後家尼御前=北条時宗の母であり、叡尊、忍性の信者)の憎む私が高橋邸に立ち寄れば、高橋家にまで類が及ぶと考えたからであると。

 

 

512

日蓮一行 相模国酒匂に着く(富木殿御書・全P964)

 

 

513

日蓮一行 駿河国竹の下に着く(同・全P964)

 

 

514

日蓮一行 駿河国車返に着く(同・全P964)

 

 

515

日蓮一行 駿河国大宮黒田に宿す(同・全P964)

 

 

516

日蓮一行 甲斐国南部に着く(同・全P964)

 

 

517

日蓮一行 甲斐国波木井郷に着く(富木殿御書・定P809、同・全P964)

 

 

517

書を富木常忍に報ず

「富木殿御書(身延入山の事)

(1-144P809、創新128P1304、校1-146P857、全P964、新P730)

身延・富木常忍

 

真蹟1紙完・千葉県鴨川市広場 鏡忍寺蔵

縮続146

*昭和定本「富木殿御書」

創価学会新版「富木殿御書(身延入山の事)

全集「富木殿御書(道中御書)

 

 

*身延への道中、日本国に流浪すべき身

けかち(飢渇)申すばかりなし。米一合もう()らず。がし(餓死)しぬべし。此の御房たちもみなかへ()して但(ただ)一人候べし。このよしを御房たちにもかたらせ給へ。

 

十二日さかわ(酒匂)、十三日たけのした(竹下)、十四日くるまがへし(車返)、十五日をゝみや(大宮)、十六日なんぶ(南部)、十七日こ()のところ()。いまださだまらずといえども、たいし(大旨)はこの山中心中(しんちゅう)に叶ひて候へば、しばらくは候はんずらむ。結句は一人にな()て日本国に流浪すべきみ()にて候。

 

524

書を著し富木常忍に報ず

「法華取要抄」

(1-145P810、創新8P148、校1-147P858、全P331、新P731)

身延・富木常忍

 

真蹟24紙完・千葉県市川市中山 法華経寺

真蹟13紙断・身延山久遠寺曽存(意・乾録等)

同草案19紙・身延山久遠寺曽存(意・乾録等)

日興本、日目本・静岡県富士宮市上条 大石寺

日澄本・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源蔵

日朝本 延山録外3 平22

録内9-1 遺16-11 縮1035

 

※大石寺・日興本については「筆写記名が無く、その筆跡からは日澄写本かとも判断される」(日興門流上代事典 大黒喜道氏)と指摘されている。

※坂井法曄氏の論考「日興写本をめぐる諸問題について」(興風21P229)でも同様の指摘。

 

*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(19131914年 神保弁静編)

法花取要抄

 

*「法華仏教研究」19号 山中講一郎氏の論考「『法花取要抄』の語法・用字に関する一考察」

*「法華仏教研究」29号 丹治正弘氏の論考「日蓮『一天四海』の用法と変容」

 

 

*冒頭「扶桑沙門日蓮之を述ぶ」

 

我等衆生は五百塵点劫より已来教主釈尊の愛子なり

又果位を以て之を論ずれば、諸仏如来は或は十劫百劫千劫已来の過去の仏なり。教主釈尊は既に五百塵点劫より已来妙覚果満の仏なり。大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の尽十方の諸仏は、我等が本師教主釈尊の所従等なり。天月の万水に浮かぶ是なり。華厳経の十方台上の毘盧遮那(びるしゃな)・大日経・金剛頂経(こんごうちょうきょう)の両界(りょうかい)の大日如来は、宝塔品の多宝如来の左右の脇士なり。例せば世の王の両臣の如し。此の多宝仏も寿量品の教主釈尊の所従なり。

此の土の我等衆生は五百塵点劫より已来教主釈尊の愛子なり。不孝の失(とが)に依って今に覚知せずと雖(いえど)も他方の衆生には似るべからず。有縁の仏と結縁の衆生とは譬へば天月の清水に浮かぶが如し。無縁の仏と衆生とは譬へば聾者(ろうしゃ)の雷の声を聞き盲者(もうしゃ)の日月に向()かふが如し。

 

 

本尊、戒壇、題目

問うて云はく、如来滅後二千余年に竜樹・天親・天台・伝教の残したまへる所の秘法何物ぞや。答へて曰く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり。問うて曰く、正像等に何ぞ弘通せざるや。答へて曰く、正像に之を弘通せば小乗・権大乗・迹門の法門一時に滅尽すべきなり。問うて曰く、仏法を滅尽せるの法何ぞ之を弘通せんや。答へて曰く、末法に於ては大・小・権・実・顕・密・共に教のみ有って得道無し。一閻浮提皆謗法と為り了んぬ。逆縁の為には但妙法蓮華経の五字に限る。例せば不軽品の如し。我が門弟は順縁、日本国は逆縁なり。

 

 

*所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり

疑って云はく、何ぞ広略を捨てゝ要を取るや。答へて曰く、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)は略を捨てゝ広を好む、四十巻の大品経を六百巻と成す。羅什三蔵は広を捨てゝ略を好む、千巻の大論を百巻と成せり。日蓮は広略を捨てゝ肝要を好む、所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり。九包淵(きゅうほうえん)が馬を相するの法は玄黄(げんこう)を略して駿逸(しゅんいつ)を取る。史陶林(しとうりん)の経を講ぜしは細科を捨てゝ元意を取る等云云。仏既に宝塔に入って二仏座を並べ、分身来集し地涌を召し出だし、肝要を取って末代に当て五字を授与せんこと当世異義有るべからず。

 

 

*本門の三つの法門之を建立、

我が門弟之を見て法華経を信用せよ。目を瞋(いか)らして鏡に向かへ。天の瞋るは人に失(とが)有ればなり。二つの日並び出づるは一国に二の国王を並ぶる相なり。王と王との闘諍(とうじょう)なり。星の日月を犯すは臣の王を犯す相なり。日と日と競ひ出づるは四天下一同の諍論なり。明星並び出づるは太子と太子との諍論なり。是くの如く国土乱れて後上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か。

  

 

書を富木尼御前に報ず

「富木尼御前御返事」

(1-146P818、校1-173P939、新P796)

身延・富木尼御前

 

真蹟14行完・東京都大田区池上 池上本門寺蔵

< 系年 >

昭和定本「文永11()

平成校定「文永12年」

 

 

*本文

尼ごぜん鵞目(がもく)一貫(いっかん)。富木殿青鳧(せいふ)一貫(いっかん)

()び候(そうら)ひ了(おわ)んぬ。
又帷(かたびら)一領
日 蓮 花押

 

⇒富木常忍夫妻がそれぞれ銭一貫文(ぜにいっかんもん)を御供養したことに対する返礼。身延に入山する師匠を気遣っての供養か。

 

 

617

身延沢に庵室成る

 

「妙法比丘尼御返事」弘安元年96日 日朝本

縦ひ命を期として申したりとも国主用ひずば国やぶれん事疑ひなし。つみしらせて後用ひずば我が失にはあらずと思ひて、去ぬる文永十一年五月十二日相州鎌倉を出で、六月十七日より此の深山に居住して門一町を出でず、既に五箇年をへたり。

 

「庵室修復書」建治3年の書 真蹟曽存

去ぬる文永十一年六月十七日に、この山のなかに、きをうちきりて、かりそめにあじちをつくりて候ひしが、やうやく四年がほど、はしらくち、かきかべをち候へども、なをす事なくて、よるひをとぼさねども、月のひかりにて聖教をよみまいらせ、われと御経をまきまいらせ候はねども、風をのづからふきかへしまいらせ候ひしが、今年は十二のはしら四方にかうべをなげ、四方のかべは一そにたうれぬ。 

 

6

曼荼羅 (11)を図顕する

*顕示年月日

文永十一年太才甲戌六月 日

*讃文

我所説経典 無量千万億 已説今説当説 而於其中 此法花経 最為難信 難解
已今当妙 於茲固迷 舌爛不正 猶為花報 謗法之罪 苦流長劫
今此三界皆是我有 其中衆生悉是吾子 而今此処多諸患難 唯我一人 能為救護
而此経者 如来現在 猶多怨嫉 況滅度後
一切世間 多怨難信 前所未説 而今説之

*授与

沙門天目 受与也

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝仏 南無分身等諸仏 南無善徳等諸仏 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊弥勒等 南無舎利仏等 不動明王 愛染明王 南無大梵天王等 南無釈提桓因等 南無持国天王 南無増長天王 南無広目天王 南無毘沙門天王 南無大日天等 南無大月天等 南無天照八旛等 南無四輪王等 南無天台大師 南無伝教大師 南無阿修羅王等 南無龍神等 南無鬼子母神 

(以下、十羅刹女のこと)南無藍婆[らんば]、南無毘藍婆[びらんば]、南無曲歯[こくし]、南無華歯[けし]、南無黒歯[こくし]、南無多髪[たはつ]、南無無厭足[むえんぞく]、南無持瓔珞[じようらく]、南無皇諦[こうだい]、南無奪一切衆生精気[だついっさいしゅじょうしょうげ]

*寸法

165.1×77.3

 

*備考

・弘安五年卯月二日の曼荼羅(120)も同じく「沙門天目受与之」とあるが、山中喜八氏は(120)を日蓮筆、(11)は他筆とする。

 

⇒曼荼羅(120)は日蓮晩年にもかかわらず力強い運筆であるのに対し、曼荼羅(11)は「富木殿御書」の「結句は一人にな()て日本国に流浪すべきみ()にて候」との、日蓮の身延入山時の心身の状態を思わせる筆使いに見える。

 

*所蔵

京都府京都市左京区岩倉幡枝町 妙満寺

 

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「法華仏教研究」35

川﨑弘志氏の論考「佐渡始顕本尊」の研究

 

 

725

曼荼羅(13)を図顕する

*顕示年月日

文永十一年太才甲戌七月廿五

甲斐国波木井郷 於山中図之

*讃文

大覚世尊入滅後二千二百二十余年之間 雖有経文一閻浮提之内未有大曼 陀羅也得意之人察之

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無分身等諸仏 南無善徳等諸仏 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 文殊師利弥勒薬王等諸菩薩 舎利弗迦葉等諸大声聞 不動明王 愛染明王 無量世界大梵天王等 無量世界帝釈天王等 東方持国天王 南方増長天王 西方広目天王 北方毘沙門天王 無量世界大日天王等 無量世界大月天王等 大日本国天照太神八旛大菩薩等 無量世界四輪王等 龍樹菩薩 天親菩薩 天台大師 伝教大師 無量世界阿修羅王等 無量世界龍神王等 天熱提婆達多 鬼子母神 一名藍婆二名毘藍婆三名曲歯四名華歯五名黒歯 六名多髪七名無厭足八名持瓔珞九名皇諦十名奪一切衆生精気 未生怨阿闍世大王

*寸法

127.3×57.0 ㎝ 6枚継ぎ

 

*備考

・曼荼羅(13)の特徴

諸天・龍王・阿修羅王に「無量世界」を冠している。

天照太神・八幡大菩薩に「大日本国」を冠している。

迹化菩薩・諸大声聞・先師に「南無」を附していない。

妙楽大師ではなく天親菩薩を配列している。

四天王に東西南北の方位を冠している。

讃文が特異である。

「天熱」提婆達多、「未生怨」阿闍世大王の表記は他の曼荼羅にはない。

提婆達多と阿闍世大王は、当曼荼羅に初めて列座したものの、以降は文永、建治年間を通じて認められず。

迹化菩薩・声聞衆に「南無」を冠していないのはこの一幅のみ。

天台・伝教等の先師に「南無」を附していないのは、弘安元年7月の曼荼羅(49)も同例。

文永年間の曼荼羅(現存27幅、身延曽存6)については、この一幅以外は全て総帰命式。当曼荼羅のみが、釈迦・多宝等の諸仏と四菩薩に「南無」を冠している。

*所蔵

千葉県茂原市茂原・藻原寺

 

*国立国会図書館・デジタルコレクション「日蓮聖人御真蹟」(19131914年 神保弁静編)

 

藻原山所蔵御本尊

 

⇒讃文では、大覚世尊が入滅した後、二千二百二十余年の間、今に至るまで教相上法華経の経文(観心本尊抄で「是くの如き本尊は在世五十余年に之無し、八年の間但八品に限る」と示された法華経従地涌出品第十五から嘱累品第二十二の八品)には有るが一閻浮提の内に未だ出現しなかった未曽有の大曼荼羅が、今始めて出現するのであり、この深き意義を得意せよと記されている。現存真蹟曼荼羅では、初めての長文の讃文となる。

 

 

726

書を上野尼・南条時光に報ず

上野殿御返事(故上野殿追善の事)

(1-147P819、創新298P1836、校1-149P870、全P1507、新P741)

身延・南条時光

創価学会新版・上野尼、南条時光

 

真蹟2紙完・茨城県常陸太田市新宿町 久昌寺(きゅうしょうじ)

満下202 宝13

録外8-9 遺16-27 縮1053

 

*昭和定本上野殿御返事」

創価学会新版「上野殿御返事(故上野殿追善の事)

平成校定「南条後家尼御前御返事(上野殿御返事)( 鵞目[がもく]十連書)

全集「上野殿御返事(亡父追善御書) 

 

 

7

南条時光(この時16) 身延に赴き日蓮に見参

 

 

書を聖密房に報ず

「聖密房御書(しょうみつぼうごしょ)

(1-148P820、創新100P1198、校1-144P848、全P896、新P724)

身延・聖密房

 

真蹟14紙完(但し内1紙欠)・身延山久遠寺曽存(乾録等)

金綱集7抄写身延山蔵 日朝本 平26

録内40-11 遺23-65 縮1659

 

< 系年 >

昭和定本「文永1156月頃」

創価学会新版「文永後期」

平成校定「文永1145月頃」

全集「建治3年」

山上弘道氏論文「『強仁状御返事』について」(興風22号・P105)「文永67年に系けられるべき」

 

 

久遠実成の釈尊が本地、始成正覚の釈尊、他の諸仏は垂迹

久遠実成なんどは大日経にはをもひもよらず。久遠実成は一切の仏の本地、譬へば大海は久遠実成、魚鳥は千二百余尊なり。久遠実成なくば千二百余尊はう()きくさ()の根なきがごとし、夜の露の日輪の出でざる程なるべし。天台宗の人々この事を弁へずして、真言師にたぼ()らかされたり。

 

 

*虚空蔵菩薩にまいりて

これは大事の法門なり。こくうざう(虚空蔵)菩薩にまいりて、つねによみ奉らせ給ふべし。

 

 

書を別当御房に報ず

「別当御房御返事(べっとうのごぼうごへんじ)

(1-149P827、創新101P1204、校1-145P855、全P901、新P728)

身延・清澄寺別当へ()

創価学会新版・別当御房

 

真蹟4(但し自署花押切取)・身延山久遠寺曽存(乾、奠、亨録)

身延山3世日進本・身延山蔵

日朝本・茨城県古河市新和田 富久成寺蔵

延山録外2

縮続99

 

< 系年 >

昭和定本「文永1156月頃」

創価学会新版「文永後期」

平成校定「文永1145月頃」

 

*身延文庫の所蔵に「聖筆断片」と題される冊子がある。

経論疏等の聖教が書写された料紙の紙背部分が剥がされ、そこに「別当御房御返事」の真蹟の墨痕が残されている。

昭和初年、身延文庫の整理中、江利山義顕が反故の中から聖筆六紙を発見。昭和37年、室住一妙氏により装丁されたもの。

(寺尾英智氏「日蓮聖人真蹟の形態と伝来」P239)

 

 

*別当

これへの別当なんどの事はゆめゆめをもはず候。いくらほどの事に候べき。但な()ばかりにてこそ候はめ。

⇒日蓮は清澄寺大衆よりの別当職要請を明確に断る。別当とは「名ばかり」と認識していたのだろう。

 

 

日蓮は閻浮第一の法華経の行者

日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり。天のあたへ給ふべきことわりなるべし。

 

 

81

宗尊親王(むねたかしんのう)33(一代要記)

 

 

86

書を門下に報ず

「異体同心事」

(1-150P829、創新398P2054、全P1463)

身延

創価学会新版・対告衆なし

 

30 真蹟なし

録内39-35 遺16-28 縮1054

 

*昭和定本「異体同心事(報大田氏書)

創価学会新版「異体同心事」

*昭和定本「文永1186日」

創価学会新版・系年なし

 

*平成校定は当書を前半・後半に分離

・前半「異体同心事」(2-367P1778、新P1389)

弘安28月 南条時光へ 平30

録内39-35 遺16-28 縮1054

・後半「蒙古事」(2-363P1761、新P1378)

弘安286日 四條金吾へ 日朝本

録内39-36 遺16-26 縮1055

 

*対告者が南条時光とされていることについて

「日興の母方の実家である河合家(祖父河合入道かその惣領)か、叔父にあたる高橋六郎入道あたりが妥当かと思われる」山上弘道氏の論考「日蓮大聖人の思想 六」(興風16P194)

*「法華仏教研究」25号 川﨑弘志氏の論考「『異体同心事』に関する文献学的考察」

*「法華仏教研究」28号 川﨑弘志氏の論考「再び『異体同心事』の系年と対告衆について 榎木境道氏の論考への反論」

 

 

*異体同心

白小袖一つ、あつわた(厚綿)の小袖、はわき(伯耆)房のびんぎ(便宜)に鵞目(がもく)一貫、並びにうけ給はりぬ。はわき(伯耆)房・さど(佐渡)房等の事、あつわら(熱原)の者どもの御心ざし、異体同心なれば万事を成(じょう)じ、同体異心なれば諸事叶ふ事なしと申す事は外典三千余巻に定まりて候。

 

 

*日蓮が一類は異体同心なれば

日本国の人々は多人なれども、同体異心なれば諸事成ぜん事かたし。日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成(じょう)じて、一定(いちじょう)法華経ひろ()まりなんと覚へ候。悪は多けれども一善にかつ事なし。譬へば多くの火あつまれども一水にはき()ゑぬ。此の一門も又かくのごとし。

 

 

*日天にも大神にも申し上げて候ぞ

其の上貴辺は、多年とし()()もりて奉公法華経にあつ()くをはする上、今度はいかにもすぐれて御心ざし見えさせ給ふよし人々も申し候。又かれらも申し候。一々に承りて日天にも大神にも申し上げて候ぞ。

 

 

*亡国

我が国のほろ()びん事はあさましけれども、これだにもそら()事になるならば、日本国の人々いよいよ法華経を謗じて万人無間地獄に堕つべし。かれだにもつよ()るならば国はほろぶとも謗法はうすくなりなん。譬へば灸治(やいと)をしてやまいをいやし、針治(はりたて)にて人をなをすがごとし。当時はなげ()くとも後は悦びなり。

 

 

*法華経の御使ひ

日蓮は法華経の御使ひ、日本国の人々は大族王(だいぞくおう)の一閻浮提の仏法を失ひしがごとし。蒙古国は雪山の下王(げおう)のごとし。天の御使ひとして法華経の行者をあだ()む人々を罰せらるゝか。又、現身に改悔(かいげ)ををこしてあるならば、阿闍世王の仏に帰して白癩(びゃくらい)をや()め、四十年の寿(いのち)をのべ、無根の信と申す位にのぼりて現身に無生忍をえ()たりしがごとし。

 

 

810

南条七郎太郎(行忍)18(富士妙蓮寺寺誌)

 

 

917

書を北条弥源太に報ず

「弥源太入道殿御返事」

(1-151P831、創新247P1700、校1-150P871、全P1228、新P742)

身延・弥源太入道

創価学会新版・北条弥源太

 

9 満上123 真蹟なし

録外9-31 遺16-29 縮1056

*全集「「弥源太入道殿御返事(転子病御書)

*系年について

文永11年ではなく建治2年ではないか。「日蓮自伝考」P210 

 

 

926

書を四条金吾に報ず

「主君耳入此法門免与同罪事(しゅくんににゅうしほうもんめんよどうざいじ) (与同罪を免[まぬか]るるの事)

(1-152P833、創新197P1539、校1-151P873、全P1132、新P743)

身延・四条金吾

 

日朝本 平16 真蹟なし

録内17-45 遺16-31 縮1058

 

*昭和定本「主君耳入此法門免与同罪事」

創価学会新版「主君耳入此法門免与同罪事(与同罪を免るるの事)

平成校定「主君耳入此法門免与同罪事(四条抄)

全集「主君耳入此法門免与同罪事(与同罪事) 

 

 

105

文永の役

蒙古(元軍)来襲 壱岐・対馬を襲う

 

「一谷入道御書」建治元年58日 真蹟

日蓮が申す事は愚かなる者の申す事なれば用ひず。されども去ぬる文永十一年太歳甲戌(きのえいぬ)十月に蒙古国より筑紫(つくし)によせて有りしに、対馬(つしま)の者かためて有りしに宗(そう)の総馬尉(そうまのじょう)逃げければ、百姓等は男をば或は殺し、或は生け取りにし、女をば或は取り集めて手をとを()して船に結()ひ付け、或は生け取りにす。一人も助かる者なし。壱岐(いき)によせても又是くの如し。船おしよせて有りけるには、奉行入道豊前(ぶぜん)の前司(ぜんじ)は逃げて落ちぬ。松浦党(まつらとう)は数百人打たれ、或は生け取りにせられしかば、寄せたりける浦々の百姓ども壱岐・対馬の如し。

 

 

1020

元軍、筑前国に上陸。鎮西の御家人は防戦しつつ太宰府に退く。夜、風雨により蒙古船二百余が漂没と伝えるも実際には元軍は撤退した模様。

 

「種種御振舞御書」真蹟曽存

同十月に大蒙古国よせて壱岐・対馬の二箇国を打ち取らるゝのみならず、大宰府もやぶられて少弍(しょうに)の入道・大友等き()ゝに()げにに()げ、其の外の兵者ども其の事ともなく大体打たれぬ。又今度よ()せるならば、いかにも此の国よは()よは()と見ゆるなり。

仁王経には「聖人去らん時は七難必ず起こる」等云云。

最勝王(さいしょうおう)経に云はく「悪人を愛敬(あいぎょう)し善人を治罰するに由るが故に、乃至他方の怨賊(おんぞく)来たりて国人喪乱(そうらん)に遭()はん」等云云。

仏説まことならば、此の国一定悪人のあるを国主たっと()ませ給ひて、善人をあだませ給ふにや。

 

 

111

幕府 両国の守護に対し、本所一円地の住人・非御家人の動員を命ず

 

                      蒙古襲来絵詞より
                      蒙古襲来絵詞より

 

1111

書を南条時光に報ず

「上野殿御返事(土餅供養の事)

(1-153P835、創新299P1837、校1-152P875、全P1508、新P744)

身延・南条時光

 

日興本完(要検討)・静岡県富士宮市上条 大石寺蔵

日朝本 満下317

録内35-39 遺16-34 縮1061

 

*昭和定本「上野殿御返事(与南條氏書)

創価学会新版「上野殿御返事(土餅供養の事)

平成校定「上野殿御返事(二管書)

全集「上野殿御返事(土餅供養御書)

 

 

法華経の行者を供養する功徳はすぐれたり

法華経の第四に云はく「人有って仏道を求めて一劫の中に於て合掌して我が前に在って無数の偈を以て讃()めん。是の讃仏(さんぶつ)に由るが故に無量の功徳を得ん。持経者を歎美せんは其の福復(また)彼に過ぎん」等云云。

文の心は、仏を一劫が間供養したてまつるより、末代悪世の中に人のあなが()ちににく()む法華経の行者を供養する功徳はすぐれたりとと()かせ給ふ。たれ()の人のかゝるひが()事をばおほ()せらるゝぞと疑ひおもひ候へば、教主釈尊の我とおほ()せられて候なり。疑はんとも信ぜんとも御心にまかせまい()らする。

 

 

山林に交はり、なみだもとまらず

(そもそも)日蓮は日本国をたすけんとふかくおもへども、日本国の上下万人一同に、国のほろぶべきゆへにや用ひられざる上、度々あだ()をなさるれば力をよばず山林にまじ()はり候ひぬ。大蒙古国よりよ()せて候と申せば、申せし事を御用ひあらばいかになんどあはれなり。皆人の当時のゆき(壱岐)つしま(対島)のやうにならせ給はん事、おもひやり候へばなみだもとまらず。

 

 

1120

書を曽谷教信に報ず

「曽谷入道殿御書」

(1-154P838、創新161P1389、校1-153P878、全P1024、新P747)

身延・曾谷入道

創価学会新版・曽谷教信

 

真蹟断片273行・京都府京都市山科区御陵大岩 本圀寺蔵

日朝本 満上230 宝10

録外12-6 遺16-32 縮1060

 

*本満寺本「曾谷入道殿御書=自界叛逆御書

昭和定本「曾谷入道殿御書」

創価学会新版「曽谷入道殿御書」

平成校定「曾谷入道殿御書(自界叛逆御書)

 

 

自界叛逆の難、他方侵逼の難は真言亡国の現証

自界叛逆(じかいほんぎゃく)の難、他方侵逼(たほうしんぴつ)の難すで()にあ()ひ候ひ了んぬ。これをもってをもうに「多く他方の怨賊(おんぞく)有って国内を侵掠(しんりょう)し人民諸の苦悩を受く。土地に所楽の処有ること無けん」と申す経文に合ひぬと覚え候。当時壱岐・対馬の土民の如くに成り候はんずるなり。是偏(ひとえ)に仏法の邪見なるによる。仏法の邪見と申すは真言宗と法華宗との違目なり。禅宗と念仏宗とを責め候ひしは此の事を申し顕はさん料なり。

漢土には善無畏・金剛智・不空三蔵の誑惑の心、天台法華宗を真言の大日経に盗み入れて、還って法華経の肝心と天台大師の徳とを隠せし故に漢土滅するなり。日本国は慈覚大師が大日経・金剛頂経・蘇悉地(そしっじ)経を鎮護国家の三部と取って、伝教大師の鎮護国家を破せしより、叡山に悪義出来して終に王法尽きにき。此の悪義鎌倉に下って又日本国を亡ぼすべし。弘法大師の邪義は中々顕然なれば、人もたぼらかされぬ者もあり。慈覚大師の法華経・大日経等の理同事勝の釈は智人既に許しぬ。愚者争(いか)でか信ぜざるべき。慈覚大師は法華経と大日経との勝劣を祈請(きしょう)せしに、箭()を以て日を射ると見しは此の事なるべし。是は慈覚大師の心中に修羅の入りて法華経の大日輪を射るにあらずや。此の法門は当世叡山其の外日本国の人用ふべきや。若し此の事、実事ならば日蓮豈須弥山を投ぐる者にあらずや。我が弟子は用ふべきや如何。最後なれば申すなり。恨み給ふべからず。

 

                  慈覚大師円仁像 栃木市(旧・岩舟町)
                  慈覚大師円仁像 栃木市(旧・岩舟町)
        ライシャワー元アメリカ大使が「世界史的偉人慈覚大師」と讃えた記念碑
        ライシャワー元アメリカ大使が「世界史的偉人慈覚大師」と讃えた記念碑

 

11

書を曾谷入道に報ず

合戦在眼前御書(かっせんざいがんぜんごしょ)

(1-155P839、校1-154P879)

身延・曾谷入道

 

真蹟3行断片・静岡県三島市泉町 本覚寺蔵

*平成校定「真蹟4行断片」

 

*当書は文永12310日、曾谷入道・大田金吾に報じた曾谷入道殿許御書」(1-170P895、創新162P1390、校1-169P917、全P1026、新P777)の第一次草稿と見るべき。

山中喜八氏「日蓮聖人真蹟の世界・下」P63

 

 

*本文

先の四ヶ條既に経文の如し。第五闘諍堅固(だいごとうじょうけんご)は末法の今に相当(あいあた)る。随(したがっ)て当世を見聞(けんもん)するに闘諍合戦(とうじょうがっせん)、眼前に在り。之を以て之を惟(おも)ふに法□□□□疑心

 

⇒「闘諍合戦、眼前」とあるので、蒙古襲来を受けての緊張感の中で書かれた書簡であることがうかがわれる。

日蓮は蒙古との激しい戦いの報告を受けて、大集経(だいじっきょう)の五箇の五百歳の始まりの四つである解脱堅固(げだつけんご)、禅定堅固(ぜんじょうけんご)=正法時代、読誦多聞堅固(どくじゅたもんけんご)、多造塔寺堅固(たぞうとうじけんご)=像法時代はまさに過去のものとなり、末法今の時は第五の闘諍堅固の時に突入し、闘諍言訟(とうじょうごんしょう)・白法隠没(びゃくほうおんもつ)である確信をさらに深め、門下に教導したものか。

日蓮自身のその覚悟と確信のほどが、従来一定の配慮をしていた比叡山・天台からの決別を促し、転じて台密を主眼とする激しい批判となり、同時に、闘諍言訟・白法隠没の時代の衆生救済の法体は自己独創の妙法曼荼羅本尊であるとして、その図顕に励むこととなったのではないだろうか。

 

 

11

曼荼羅(14)を図顕する

*顕示年月日

文永十一年甲戌十一月 

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無分身等諸仏 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗等 不動明王 愛染明王 南無天台大師 南無伝教大師

*寸法

83.4×44.9㎝ 3枚継ぎ

*所蔵

静岡県沼津市岡宮 光長寺

 

⇒曼荼羅(14)と次の曼荼羅(15)は、ほぼ同型と見える。

 

 

11

曼荼羅(15)を図顕する

*顕示年月日

〔文永〕十一年〔甲〕戌十一月 

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無分身等諸仏 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗等 不動明王 愛染明王 南無天台大師 南無伝教大師

*寸法

82.7×43.3cm 3枚継ぎ

*所蔵

滋賀県近江八幡市長福寺町 妙経寺

 

 

11

曼荼羅を図顕する

*「日亨本尊鑑」(P12)  第6 同日三幅 底本(2)

「日蓮聖人真蹟の世界・上」(P82)

*模写本尊

*顕示年月日

文永十一年甲戌十一月 日

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無分身等諸仏 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗等 不動明王 愛染明王 南無天台大師 南無伝教大師

*日興添書か

但可為大本門寺重宝也(首題直下)  因幡国富城五郎入道日常息寂仙房申与之(左下隅)

*寸法

87.6×44.2cm 3枚継ぎ

*所蔵

身延山久遠寺曽存 

 

 

11

曼荼羅を図顕する

*「日亨本尊鑑」(P8) 第4 同日三幅 底本(3)

*模写本尊

*顕示年月日

文永十一年甲戌十一月 日

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗等 不動明王 愛染明王 南無天台大師 南無伝教大師

(南無分身等諸仏は?)

*寸法

82.7×42.4cm 3枚継ぎ

*所蔵

身延山久遠寺曽存 

 

 

11

曼荼羅を図顕する

*「日亨本尊鑑」(P10) 第5 同日三幅 底本(4)

「日蓮聖人真蹟の世界・上」(P82)

*模写本尊

*顕示年月日

文永十一年甲戌十一月 日

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無薬王菩薩 南無舎利弗等 不動明王 愛染明王 南無天台大師 南無伝教大師

*寸法

81.8×43.3cm 3枚継ぎ

*所蔵

身延山久遠寺曽存 

 

 

1215

書を著す

顕立正意抄(けんりっしょういしょう)

(1-156P840、創新41P638、校1-156P881、全P536、新P749)

身延

昭和定本・創価学会新版・対告衆なし

 

日春本・静岡県沼津市岡宮 光長寺蔵

日朝本 平19

録内13-25 遺16-45 縮1073

 

 

日本国上下万人阿鼻大城に堕せん

今亦以て是くの如し。設ひ日蓮富楼那(ふるな)の弁を得て目連の通(つう)を現ずとも、勘(かんが)ふる所当たらずんば誰か之を信ぜん。去ぬる文永五年に蒙古国の牒状(ちょうじょう)我が朝に渡来する所、賢人有らば之を怪しむべし。

設ひ其れを信ぜずとも去ぬる文永八年九月十二日御勘気を蒙りしの時吐く所の強言、次の年二月十一日に符号せしむ。情(こころ)有らん者は之を信ずべし。何に況んや今年既に彼の国災兵(さいひょう)の上二箇国を奪ひ取る。設ひ木石たりと雖も、設ひ禽獣(きんじゅう)たりと雖も感ずべく驚くべし。偏に只事に非ず。天魔の国に入って酔へるが如く狂へるが如し。歎くべし哀むべし、恐るべし厭(いと)ふべし。

又立正安国論に云はく「若し執心飜(ひるがえ)らず、亦曲意(きょくい)猶存せば早く有為の郷(さと)を辞して必ず無間の獄(ひとや)に堕ちなん」等云云。今符号するを以て未来を案ずるに、日本国上下万人阿鼻大城に堕せんこと大地を的(まと)と為すが如し。此等は且(しばら)く之を置く。日蓮が弟子等又此の大難脱(のが)れ難きか。

 

 

1228

書を平内左衛門に報ずと伝う

「与平内左衛門書」

(3続編30P2103)

身延

16-47 縮1076 真蹟なし

*平成校定は偽書として不収録

 

 

12

曼荼羅 (16)を図顕する

*通称

万年救護本尊

*顕示年月日

文永十一年太才甲戌十二月 

甲斐国波木井郷於 山中図之

*讃文

大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖尓月漢 日三ヶ国之 間未有此 大本尊 或知不弘之 或不知之 我慈父 以仏智 隠留之 為末代残之 後五百歳之時 上行菩薩出現於世 始弘宣之

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無十方分身諸仏 南無善徳仏 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩 南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無迦葉尊者 南無舎利弗尊者 不動明王 愛染明王 南無大梵王 南無天帝釈 南無日月天等 南無天照八幡等諸仏 南無天台大師 南無伝教大師 

*寸法

106.0×56.7㎝ 3枚継ぎ

 

*備考

・「御本尊集」解説

「此の御本尊もまた極めて重要なる御内観を示したまえるもの」

「すなわちその特一無比の御讃文に於て御自身の本地を顕発したまうとともに、本国土妙の代表たる天照・八幡二神の本地をも示されたのであって、かくの如き儀相は他に全く拝することができない。」

「讃文中、大本尊と称したのはこの曼荼羅のみ。他は大漫荼羅、大曼陀羅を用いる。」

 

・山川智応「日蓮聖人研究」第2P407趣意

「本因妙・本国土妙御顕発の御本尊」

*所蔵

千葉県安房郡鋸南町吉浜 保田妙本寺

 

⇒讃文では、

大覚世尊(釈尊)が入滅された後、二千二百二十余年が経歴するが、月漢日(インド、中国、日本)の三カ国に於いて未だなかった大本尊である。

日蓮以前、月漢日の諸師は、或いはこの大本尊のことを知っていたが弘めず、或いはこれを知らなかった。

我が慈父=釈尊は仏智を以て大本尊を隠し留め(釈尊より上行菩薩に譲られて)、末法の為にこれを残されたからである。後五百歳の末法の時、上行菩薩が世に出現して初めてこの大本尊を弘宣するのである。 

との旨が示されている。

 

万年救護本尊の讃文に見る末法の教主

 

 

*身延の草庵に安置され続けた万年救護本尊

 身延草庵の本尊に関する一考

 

 

12

曼荼羅を図顕する

*「日亨本尊鑑」(P16) 第8 文永十一年十二月御本尊 底本(6)

「日蓮聖人真蹟の世界・上」(P50)

*顕示年月日

文永十一年甲戌十二月 日

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無十方分身諸仏 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊薬王菩薩 南無舎利弗迦葉等諸声聞 不動明王 愛染明王 南無梵天帝大日天等 南無天照大神正八幡等 南無天台大師 南無伝教大師

*寸法

104.5×53.6cm 3枚継ぎ

*所蔵

身延山久遠寺曽存 

 

 

この年

 

一遍 時宗を開く

 

 

宮城一迫宮野陸前守弘次(葛西氏) 受法して身延山に参詣と(陸前宮野氏系図)

 

 

日興 駿河国岩本実相寺方面に弘教す(熱原法難史年譜)

 

 

日目(15) 日興に面謁す

*「三師御伝土代」(富要512)

日目上人御伝土代

(文永)十一年きのへいぬ日興上人に値ひ奉り法華を聴聞し即時に解し信力強盛なり十五才なり。

建治二年ひのへ子年十一月廿四日、身延山に詣で大聖人に値ひ奉り常随給仕す、十七才なり。

 

【 系年、文永11年と推定される書・曼荼羅本尊 】

 

 

書を最蓮房に与う

「立正観抄」

(1-158P844、創新42P641、校1-165P904、全P527、新P766)

身延・最蓮房

 

身延三世日進本完・身延山蔵

日朝(日目の弟子)本・茨城県古河市新和田 富久成寺蔵

日朝本

録内38-1 遺16-37 縮1064

 

*平成校定「立正観抄(与最蓮房書)

< 系年 >

昭和定本・創価学会新版・全集「文永11年」

平成校定「文永122月」

 

*真偽論について

「法華仏教研究」2号 花野充道氏の論考「日蓮の『立正観抄』の真偽論の考察」

「法華仏教研究」8号 花野充道氏の論考「『立正観抄』日蓮真撰説の論証」

「法華仏教研究」9号 山口晃一氏の論考「日蓮研究の方法論」

 

 

書を著すと伝う

「放光授職潅頂下」

(3続編28P2099)

佐渡

品類御書6-13 真蹟なし

< 系年 >

昭和定本「文永11()

*平成校定は偽書として不収録

 

 

要文抄録

「迦葉付属事」(涅槃経要文)

真蹟125紙・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

26紙・佐賀県小城市三日月町織島 勝妙寺蔵

27紙以降は逸失

涅槃経・後分涅槃経・像法決疑経・法華経・文句記・般若経・大論より、付属についての要文を抄出したもの。

 

 

曼荼羅(10)

*通称

楊子御本尊、船中御本尊

*相貌

首題 自署花押 四天大王 日月衆星

*寸法

27.0×14.2cm 1

*備考

・伝承では「当曼荼羅は、文永十一年三月十五日、佐渡真浦より越後柏崎に渡られる船中に於て、楊子を以て認めたまうところ」と伝う。

*所蔵

新潟県佐渡市両津湊 妙法寺

⇒系年は文永11年か

 

「法華仏教研究」36号 川﨑弘志氏の論考「日蓮聖人の御本尊の考察(三)」

楊子御本尊は佐渡からの帰路ではなく、文永8年に佐渡への往路で顕したものと考える。(趣意)

 

 *新潟県立歴史博物館公式X(Twitter) 日蓮聖人と法華文化 船中木筆の曼荼羅

 

 

曼荼羅(12)

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行無辺行菩薩 南無浄行安立行菩薩 不動明王 愛染明王

*日興添書

佐渡国法花東梁阿仏房彦如寂房日満相伝 之

*寸法

42.7×29.1cm 1

*所蔵

新潟県佐渡市阿仏坊 妙宣寺

⇒系年は文永11年か

 

 

曼荼羅(17)

*通称

朗尊加判御本尊

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王

*寸法

86.1×43.4cm 3枚継ぎ

*日朗添書

日朗 花押

 

*備考

・首題直下に日朗の自署花押を存する故に「朗尊加判の御本尊」と通称される。

・分身諸仏を略す、四菩薩の位次が通例と異なる。

・「集成」7

*所蔵

千葉県松戸市平賀 本土寺

 

⇒系年は文永11年か

 

 

曼荼羅(18)

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝仏 南無分身諸仏 南無善等諸仏 南無胎蔵大日如来 南無金剛大日如来 南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊薬王等大菩薩 南無舎利弗等諸声聞 不動明王 愛染明王 南無大梵天王等 南無釈提桓因等 南無持国天王 南無増長天王 南無広目天王 南無毘沙門天王 南無大日天等 南無大月天等 南無天照八旛等 南無四輪王等 南無天台大師 南無伝教大師 南無阿修羅王等 南無龍神等 南無鬼子母神 南無藍婆 南無毘藍婆 南無曲歯 南無花歯 南無黒歯 南無多髪 南無無厭足 南無持瓔珞 南無皇諦 南無奪一切衆生精気

*寸法

189.4×112.1cm 20枚継ぎ

*所蔵

千葉県松戸市平賀 本土寺

 

⇒系年は文永11年か

胎蔵界大日如来と金剛界大日如来、両界の大日如来を勧請するのは当曼荼羅(18)と系年・建治元年11月とされる「日亨本尊鑑」第12番曼荼羅の二幅となる。

 

文永11524日の「法華取要抄」(真蹟)には、両界大日如来勧請の意が含まれているのではないだろうか。

 

又果位を以て之を論ずれば、諸仏如来は或は十劫百劫千劫已来の過去の仏なり。教主釈尊は既に五百塵点劫より已来妙覚果満の仏なり。大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の尽十方の諸仏は、我等が本師教主釈尊の所従等なり。天月の万水に浮かぶ是なり。華厳経の十方台上の毘盧遮那(びるしゃな)・大日経・金剛頂経(こんごうちょうきょう)の両界(りょうかい)の大日如来は、宝塔品の多宝如来の左右の脇士なり。例せば世の王の両臣の如し。此の多宝仏も寿量品の教主釈尊の所従なり。此の土の我等衆生は五百塵点劫より已来教主釈尊の愛子なり。

 

「大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の尽十方の諸仏」は「教主釈尊の所従等」であり、「天月」が「万水に浮かぶ」ようなものである。そして「大日経」「金剛頂経」に示される「両界の大日如来」については、釈尊の所従たる「宝塔品の多宝如来」の更に「左右」に連なる「脇士」に過ぎないのである。

このように「釈尊⇒所従・多宝如来⇒左右の脇士・胎蔵界大日如来と金剛界大日如来」との仏としての上下関係を明らかにしたものを、更に曼荼羅にも反映、示したものが曼荼羅(18)と「日亨本尊鑑」第12番曼荼羅であろうか。

 

【 文永期と推定される書 】

 

 

「御衣布供養御書(おんころもぬのくようごしょ)

(4-435P2873、創新425P2146、校1-96P561、新P504)

昭和定本・創価学会新版・対告衆なし

 

真蹟125行完・京都府京都市上京区小川通寺之内上ル本法寺前町 本法寺

*昭和定本「御衣布給候御返事(おんころもぬのたびそうろうごへんじ)

創価学会新版「御衣布供養御書」

平成校定「御衣布御返事(御衣布給候御返事)

< 系年 >

昭和定本「文永」
創価学会新版・系年なし

平成校定「文永8年」

 

 

*本文

御衣布給候(おんころもぬのたびそうら)ひ了(おわ)んぬ。この御ぬの()は一物(いちもつ)の御ぬの()にて候。又十二いろ()はたふやかに候。御心ざしの御事はいまにはじめぬ事に候へども、ときにあたりてこれほどの御心ざしはありぬともをぼへ候はず候、かへす、かへす御ふみにはつ()くしがた()う候。恐々。
乃時(ないじ)

日蓮 花押
御返事

 

⇒十二色の衣布の御供養に、信心の志・真心を感じられて急ぎ返礼をしたものか。

 

 

書を著す

「二乗作仏事」

(1-19P152、創新44P654、校1-25P203、全P589、新P200)

昭和定本・創価学会新版・対告衆なし

 

日朝本 延山録外 真蹟なし

縮続101

< 系年 >

昭和定本「正元2()

創価学会新版「文永後期」

 

 

「五十二位図(種脱系図)

(4図録新加33P2912、校3図録19P2440、新P797)

真蹟1紙・京都府京都市上京区小川通寺之内上ル本法寺前町 本法寺蔵

< 系年 >

昭和定本・平成校定「文永」

 

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