13 熊野三山本願所

 

冒頭に記したように、15世紀末以降、熊野山伏・熊野比丘尼らは諸国をめぐり熊野三山(熊野本宮、熊野新宮[速玉]、熊野那智)の社殿・堂塔・山内施設の建立、再興、修造のための勧進活動を行った。勧進比丘尼によって絵解きをされ、多くの庶民を熊野三山の信仰へと誘った「熊野観心十界曼荼羅」が各地に伝わり50数本が現存しているのも、往年の活動ぶりを物語るものだろう。()

 

熊野山伏・比丘尼を送り出したのが熊野三山本願所で、その規模は大きく、本宮・新宮・那智の各山ごとに本願所があり、特に那智山は七つの本願寺院から構成され七本願、七ツ穀屋と呼ばれた。()本願寺院には、寺付きの山伏・比丘尼が居住し、諸国を勧進行脚した山伏・比丘尼は願職と呼ばれ、組織化されていた。

 

那智山の本願寺院の宗旨を知る資料は江戸時代のもの、元禄16(1703)年と享保12(1727)に作成された「切支丹御改帳」()となるが、天台と真言で構成されている。

 

興味をひかれるのが五つの坊舎の配置で、「那智山古絵図」()によれば御前庵主(天台)、瀧庵主(真言)、那智阿弥(真言)、春禅坊(天台)、理性院(真言)は那智本社拝殿の近くに建てられている。本願寺院の他の二つ、阿弥陀寺(真言)は那智山に隣接する妙法山内に、補陀洛山寺(天台)は那智の海岸近くに位置している。

 

 

() 那智山・七つの本願寺院

 

 

これより根井浄氏の「補陀落渡海史」と、太田直之氏の「中世の社寺と信仰 勧進と勧進聖の時代」の教示に導かれながら、主に「熊野那智大社文書」()と「熊野本願所史料」()をめくり、熊野三山本願の成立と展開を概観してみよう。

 

(両氏の著作の該当頁については以下、「根井氏」「太田氏」と表記)

 

 

 

➀御前庵主・天台 

 

(根井氏 pp.604608)(太田氏 pp.174175)

 

本社拝殿近く、春禅坊(大禅院)左手に近接していた。現在は斎館が建つ。山内の証誠殿、滝宮等の主要社殿、二ノ瀬橋、振ヶ瀬橋、清明橋等、二十ヶ所を管轄していた。御前庵主が確認される古い文書は、永享11(1439)3月晦日付の「借銭状」とされる。

 

 

 

申請りせにの事

 

合拾貫文者、

 

右件の御用途ハ依有かり申候処実正也、但、此の御用途ハ、月別ニ百文ニ五文宛の利分相そへ候て、来十ヶ月中ニさた申候へく候、御しちにハ仁王堂のせきせんの入おき申候処実也、もしやくそくの月おすき候ハヽ、此関せんのめしとられ申候ハんする時ニ、一言の子細申すましく候、仍為後日証文之状如件、

 

永享拾一年三月晦日 菴主継全 花押

 

定什 花押

 

両在庁 寛海 花押

 

                   盛算 花押()

 

 

 

永享11(1439)3月末日、菴主継全と定什は十貫文を借り受け、那智山の仁王堂の関銭を質とした。一方、「本願出入証跡文写別帳写・弐」に収載する「本願中年中行事之次第」には、御前庵主が「仁王門」を管轄していたことが記されており、仁王堂の関銭を質にできる「借銭状」の「菴主」とは、御前庵主であると推定される。同年の928日にも、菴主継全と定什は十貫文を借り受けている。

 

 

 

申うくるりせにの事

 

合拾貫文者、

 

右件料足ハ、月別ニ百文ニ五文宛之理分おそゑ候て、十ヶ月の内ニ沙汰可申候、但、御賛()ニハ仁王堂之卅二文之関銭お入置申候、もし無沙汰候ハ、おさゑ取られ申へく候、此料足ハ新宮と有馬与弓矢之時、兵糧之ためニ取申候、仍為後日状如件、

 

永享十一年九月廿八日  両在庁 聞善坊隆儀 花押

 

                        寛宝房賢珎 花押

 

                        御代官定什 花押

 

菴主継全 花押()

 

 

 

次にその活動のうかがえるのが、「熊野那智山本願中出入証跡記録」()の「本願中出入証跡之写別帳・壱」にある勧進帳の序文となる。

 

 

 

十二所宮殿再興勧進状

 

勧進沙門 敬白

 

請特諗貴親聊賤分六十万數札 依緇素助成再興十二所宮殿状

 

~文章略~

 

弘治三年極月吉日

 

熊野那智山十二所権現御造営勧進帳

 

本願御前庵主坊 良源 花押

 

弟子大蔵坊 源祐 花押(10)

 

 

 

弘治三年(一五五七)十二月、御前庵主の良源と弟子の源祐は、六十万枚の札を賦分して那智山十二社権現の再興勧進を行っていた。これは一遍が熊野権現の啓示を受けた後、「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」の札を賦算して諸国を遊行したことを彷彿とさせるもので、一遍の熊野成道と宗教的実践が没後三〇〇年近くに行われた勧進活動のよりどころとなっていたことがうかがえる。

 

 

 

元禄十六年(一七〇三)の「切支丹御改帳」では、御前庵主に男女七人が住するも、住職は「無住」となっている。享保十二年(一七二七)には住職がいて、男女六人が住している。

 

 

 

②瀧庵主・真言

 

(根井氏 pp.608611) (太田氏 p.176)

 

御前庵主の南、寂光橋の東に位置していた。慶長年間(15961615)には、成就院と呼ばれ、屋内に十穀座敷があった。那智滝・山上不動堂の応仁元年(1467)の「山上不動堂棟札」には、「瀧本庵主心海老和尚」(山上不動堂棟札本尊)とあるが、前に見たように後に書き加えたものと推定される。

 

瀧庵主の住持として、慶長年間に広く活動した比丘尼・妙音は隠居し、後住に頼賢を指名した。頼賢はもと仙瀧院の滝行者で34年間の滝本修行をおこない、護摩堂と山上堂を建立。法華経一部読誦の、法華経の持経者でもあった。

 

 

 

瀧御造営覚書帳

 

当寺一代住持権大僧都法印頼賢大和尚

 

堯秀頼意ノ師也

 

生縁薩州小牧山

 

瀧本山籠卅四年并瀧本護摩堂・同山上堂・瀧庵主寺建立ノ仁也

 

毎月法華壱都()読誦 七拾七才ニテ化 仙瀧院中興、

 

寛永三(1626)丙寅ノ二月十四日(11)

 

 

 

元禄16(1703)年の「切支丹御改帳」では、住職は「堯珎」で男女22人が住している。享保12(1727)には男女25人が住するも、住職は「無住」となっている。

 

 

 

③那智阿弥・真言

 

(根井氏 pp.611614)(太田氏 pp.177179)

 

那智大社・如意輪堂(現在の青岸渡寺)前より下った左側。瀧庵主の北に位置。中世には奥之坊と呼ばれる。

 

京都・相国寺の瑞渓周鳳(13921473)の日記、「臥雲日件録」の享徳元年(1452)七月二十六日条にある「如意庵主」が那智阿弥僧と推測されるも、その本願としての活動は明らかではないようだ。

 

文亀3(1503)2月吉日の「永代売渡申候屋敷之事」には、尊勝院所有の屋敷を如意輪堂の本願が「旦過之屋敷ニ仕候えとて所望」し、これを「三貫文」で「買主正竹」に売り渡すことが記されていて、如意輪堂の本願である正竹が那智阿弥と推測される。尚、旦過とは修行僧・参詣者を接待し、彼らが宿泊する施設の呼称で、各地の霊場への参詣路沿いに設けられた。

 

 

 

屋敷売券

 

永代売渡申候屋敷之事

 

合三貫文

 

右件之屋敷者、在所ハ下之院禅長房屋地にて候を、依有用要、尊勝院に買徳仕候を、如意輪堂本願旦過之屋敷ニ仕候えとて所望候間、過分地ニて候へ共、善事ニて候間、永代売渡申候、只しさいめハ東ハかきの木中石蔵をかきり、西ハ勝覚院ね石をかきり、此者大道をかきり、刀寅ハ御幸道をかきり、若、彼屋敷何方より違乱出来候者、売主として道遣可申候、仍為後日売券之状如件、

 

文亀三年 ミつのとの井 貳月吉日

 

尊勝院 売主重済 花押

 

買主主竹(12)

 

 

 

永正12(1515)、重尊の「田地売券」の宛所には「如意坊那智阿弥」とある。

 

 

 

田地売券

 

永代売渡申地之事

 

合五百文者、

 

右件地者、大光坊より宝如房相伝にて候へ共、依有用要、那智阿弥に永代売渡申處実也、若、何方より違乱出来候者、宝如坊として道遣可申候、仍為後日状如件、

 

永正十二年閏二月廿八日

 

重尊 花押

 

如意坊那智阿弥(13)

 

 

 

大永2(1522)、奥之坊が那智山如意輪堂供養の槌始めの儀を行っている。

 

那智阿弥には花山法皇に由来する「西国三十三所尊像」一幅、「廻国御縁起」一箱、「巡礼縁起」一箱、「花山法皇西国三拾三所御順幸以来御血脈過去帳」一冊が伝来していたといい、元禄年間(16881704)には如意輪堂の鍵を預かり管理を行っていて、西国三十三所観音巡礼を管轄する本願寺院としての機能を有していた。

 

 

 

花山院御遺物

 

西国三十三所尊像     壱幅

 

廻国御縁起          壱箱

 

右之御本尊佛眼上人御筆、一番より三十三番之御書

 

付者花山院御宸筆之由、右之御本尊行者供養之御本尊也、

 

尤行者仲間一臈之内江預り申候・・・・

 

一 順礼縁起  壱箱  内有目録・・・・

 

一 花山法皇西国三拾三所御順幸以来御血脈過去帳(14)

 

 

 

那智で滝籠りを行ったという、花山法皇が始めたと伝承されるのが西国三十三所霊場の巡礼で、その一つに那智の如意輪堂が組み込まれていた。南北朝時代頃に伊勢神宮への参詣が盛んになると、如意輪堂が西国三十三所の一番霊場、札所とされた。これにより、那智山への巡礼者が増加したことが那智七本願の組織化を促し、勧進事業の活発化へとつながっていく。

 

元禄16(1703)年の「切支丹御改帳」では住職は「長賢」、男女20人が住する。享保12(1727)は男女13人が住している。

 

 

 

④春禅坊・天台

 

(根井氏pp.614616)(太田氏 p.180)

 

御前庵主の北東に位置。17世紀中頃よりは、大禅院と呼ばれるようになる。

 

 

 

「熊野年代記」

 

万治二(1659)己亥 那智山春善坊へ御室の宮より大禅院と可称令旨、二月廿二日出、乗清之代也、是より大禅院と云。

 

 

 

慶長4(1599)、「田楽再興日記」には那智田楽再興の装束・道具を寄進した、「御前庵主、那智阿ミ、瀧庵主、補陀落寺清原、春禅 瀧庵主内」が記載される。

 

 

 

田楽再興日記写

 

那智山田楽廊坊一乱ヨリ廿年たいてん仕候ヲ、廊屋陰居致走正躰付、上之梅松丸・同五郎平丸・清水瀬兵衛・清水新助・上職事少丸・答志九右衛門・清水作内進テ仕、慶長四年より田楽おとり申候、いせう寄進之事、

 

五人前分 実報院

 

一人前分 御前庵主

 

一人前分 那智阿ミ

 

一人前分 瀧庵主

 

一人前分 春禅 瀧庵主内

 

壹人前分 宋心

 

諸道具れう事うつし

 

補陀洛寺清原

 

太このわ寄進衆

 

一ツ分 濱宮庄屋神三郎

 

一ツ分 くしの川庄や与三郎

 

一ツ分 天満かし与左衛門

 

一ツ分 同かし喜助

 

右寄進也、

 

大コノ輪ニ、

 

当山執行 実報院道助

 

時之衆徒衆ノ事 新蔵房

 

尼清義 覚善房

 

十如房 門善房

 

宝春房 善□房

 

□樹房 宝如房

 

春光房 常楽房

 

大納言 清畠坊

 

瀧本衆

 

圓蔵房 金瀧房

 

仙瀧房

 

其時細工人数

 

川堰 湯之助

 

(三輪)崎 菖蒲之助

 

西 四九助

 

時之原 勝達房

 

(紙道具カ)川関廊

 

陰居者ニて此も出来申候、

 

慶長四己亥年六月吉日

 

清義 印

 

 

 

元禄16(1703)の「切支丹御改帳」では、住職は「浄意」で男女20人が住している。享保12(1727)には男女18人が住する。

 

 

 

⑤理性院・真言

 

(根井氏 pp.616618)(太田氏 p.180)

 

古くは行屋坊と号した(寛永10年・1633、社堂立方指図)。春禅坊の南、寂光橋の西側に位置。

 

 

 

寛永十癸酉三月廿三日社堂立方指図 一巻

 

右奥〆名前如左之

 

實方院 道俊

 

朱ニて 瀧寿院事  廊之坊 重傳

 

             同断 一山惣名 惣社人中

 

那智阿弥 長圓

 

御前庵主 快圓

 

瀧庵主   堯秀

 

朱ニて 大禅院事  春禅坊   乗福

 

朱ニて 理性院事  行屋坊   祐正

 

妙法山  阿弥陀寺 海圓

 

濱之宮  補陀落寺 清雲

 

各無印(15)

 

 

 

慶長18(1613)、社僧・廊之坊宛ての「那智山役僧中上申書」の署名に、「行屋()」とある。

 

元禄16(1703)年の「切支丹御改帳」では、住職は「慶意」で男女7人が住する。享保12(1727)には住職は「無住」となり、男女7人が住している。

 

 

 

⑥補陀洛山寺・天台

 

(根井氏 pp.618619)(太田氏 p.179)

 

那智の海岸近くに位置。観音菩薩のいる浄土たる補陀洛を目指し、小船にのり大海に身をあずける捨身行が補陀洛渡海と呼ばれ、平安時代から江戸時代にかけて行われた。補陀洛山寺は補陀洛渡海へ向かう僧らの拠点となった。京都・青蓮院の12世紀から15世紀にかけての記録を集大成した「門葉記」には、妙香院荘園目録(応和元年[961]65日付け)が載せられていて、そこに「補陀落寺領」とあるのが初見とされる。

 

元禄16(1703)年の「切支丹御改帳」では、住職は「順應」で男女4人が住する。享保12(1727)には住職は「無住」となり、男女は同じく4人が住している。

 

 

 

⑦妙法山阿弥陀寺・真言

 

(根井氏 p.620)(太田氏 pp.179180)

 

那智山より南西に連なる法山の中腹にある。寺伝については、「法華験記」の「巻上・第九 奈智山の応照法師」の項でみたとおりだ。尚、「紀伊続風土記」(寛文三年記)では「弘法大師空海の開創」とし、納骨、卒塔婆供養、石塔建立の「諸仏救世之道場」とされ、女人高野と呼ばれたという。これらは中世、高野聖が廻国行脚して大師信仰をひろめ、高野山への納骨参詣を勧めたことと軌を一にしているように思われ、空海開創伝承とあわせ真言の伝道者による活動を物語るものではないかと思う。

 

元禄16(1703)年の「切支丹御改帳」では、住職は「覚了」で男女14人が住する。享保12(1727)には男女4人が住している。

 

                       熊野古道
                       熊野古道

() 那智山の社家

 

 

山伏、比丘尼らが各地で勧進奉加を募り、那智山の社殿・堂塔を建立、修造した那智七本願の成立は15世紀末頃からとされるが、古くから那智山を掌握・運営してきたのは在地領主層を出自とする衆徒らで、彼らは本願が成立するに及んで自ら社家と称するようになった。那智山の居住人員の大半以上を占め、山内の仏事、神事を取り仕切っていた社家の寺院(16)についても、「切支丹御改帳」によれば奥之院の臨済宗以外は天台と真言で構成されている。

 

 

 

元禄16(1703)年 「切支丹御改帳」(本願寺院も含む)

 

実方院・天台 東執行天台宗組頭

 

上之坊・天台

 

宝春坊・真言

 

理性院・真言

 

玄性院・天台

 

 

 

龍壽院・天台 西執行天台宗組頭

 

宝如坊・天台

 

中之坊・真言

 

宝寿坊・天台

 

 

 

尊勝院・天台 天台組頭

 

橋爪坊・天台

 

瀧庵主・真言

 

妙法山(阿弥陀寺)・真言

 

 

 

仙龍院・真言 真言組頭

 

大蔵坊・天台

 

宝泉坊・天台

 

圓坊・天台

 

 

 

明楽坊・天台 天台組頭

 

那智阿弥・真言

 

道場・天台

 

大禅院・天台

 

御前庵主・天台

 

 

 

神光坊・天台 天台組頭

 

補陀落寺・天台

 

浄厳坊・天台

 

春光坊・天台

 

眞覚坊・天台

 

 

 

享保12(1727) 「切支丹御改帳」(本願寺院も含む)

 

実方院・天台 東執行天台宗組頭

 

宝順坊・天台

 

上之坊・真言(前は天台だった)

 

宝春坊・真言

 

理性院・真言

 

 

 

龍壽院・天台 西執行天台宗組頭

 

宝如坊・天台

 

覚寿坊・真言

 

大蔵坊・天台

 

真覚坊・天台

 

 

 

明楽坊・天台 天台組頭

 

那智阿弥・真言

 

如法道場・天台

 

大禅院・天台

 

御前庵主・天台

 

 

 

尊勝院・天台 天台組頭

 

橋爪坊・天台

 

瀧庵主・真言

 

妙法山(阿弥陀寺)・真言

 

仙龍院・真言 真言組頭

 

宝寿坊・天台

 

円海院・天台

 

宝泉坊・天台

 

実蔵坊・天台

 

宝光坊・天台

 

 

 

神光坊・天台 天台組頭

 

補陀落寺・天台

 

浄厳坊・天台

 

光明坊・?

 

春光坊・天台

 

奥之院・臨済

 

 

 

古来より熊野三山を運営してきた在地の有力者について、宮地直一氏は論考「熊野神社と熊野山」(17)にて、次のように解説されている。

 

「又かく全山が別当家の統帥の下に僧侶の勢力圏に帰入せしよりは、かの宇井・鈴木氏の如き古来の名族も、大勢のまにまに社僧に混じて命脈を繋ぐの外なかりしならん。三山の中かかる古代の姓氏の比較的よく保存せられしは、実に新宮にして、此処に限り禰宜・宮主等の神職の残れるは、一に彼等の為めにせられしものなるべし。(続風土記八十三)されど本宮にありては、殆ど往古の社職を一掃し尽してその跡を留めず、近代に至り神官として奉仕せしは、多く大和の奥なる玉置山(本宮奥院と称す)より移りしものなりという。(続風土記八十六)次に那智は僧侶の手に創められしを以て、最初より神職を置かず、又遂に之を設くるに至らざりき。」

 

 

 

同じく在地の有力者につき、五来重氏は次のように解説される。

 

「熊野別当の成立はどうもはっきりしないのであるが、熊野三山の司祭神職が熊野修験道の成立とともに山伏化したものであろう。とくに新宮には宇井、鈴木、榎本の神職家があり、那智では米良、潮崎の神職家があったが、いずれも宇井円隆坊、鈴木大乗坊、榎本大円坊、米良実報院、潮崎尊勝院などの名で修験化している。」(18)

 

「新宮は本宮、那智とちがって神官だけで修験がなかったといわれる。しかしすくなくとも神倉聖は修験であった。新宮大社の方にも衆徒と社僧があったのは、やはり修験であって、衆徒の一臈を総検校といい、社僧の一臈を一和尚といったのはこれをあらわしている。しかしかれらは榎本、宇井、鈴木などの姓をもっていたので、のちに武士化するのである。」(19)

 

 

 

くだって戦国時代の那智山を見ると、山内は東座と西座から成り立っていた。東座は潮崎尊勝院以下天台宗の六家からなり滝本執行を出し、西座は西仙瀧院以下真言宗の六家で那智山執行を出していた。この頃は那智山執行と滝本執行の両名が那智山を統轄している。

 

社僧については、宿老10人、講誦12人、衆徒75人、滝衆66人、役人12人、行人85人、穀屋7人がいた。執行職経験者が宿老となり、衆徒は山内の祭礼・法会を行い、穀屋は堂宇の修理、献灯を担い、滝衆・行人は滝本執行の配下にあった。他に本願と清掃を行う小法師原(地下人)がいた。

 

 

()新宮の本願所・新宮庵主

 

 

熊野新宮の本願所である新宮庵主の起源は従来、弘安8(1285)5月に「神祇長上従二位」が新宮神会の日時を、「別当代本願所并衆徒寺中」に伝えた文書「神祇長神会定日撰書」であるとされてきた。

 

 

 

神祇長神会定日撰書写

 

(端裏書)

 

「写し」

 

撰申 熊野新宮神会定日事

 

九月十五日同十六日 時申

 

右壬午年任寄文神会定日撰

 

之状如件

 

弘安八乙酉五月日

 

神祇長上従二位

 

別当代本願所并衆徒寺中

 

在庁官人并神官祢宣

 

勅 驚堅等中(20)

 

 

 

「神祇長神会定日撰書」については、太田直之氏により「神祇長上」とは吉田神道の吉田兼俱(14351511)が神祇界の長たるべく自称し、以降、吉田家当主が名乗のったもので、13世紀には存在しない呼称であることが指摘されている(21)。尚、吉田兼俱は神道長上と名乗り、次に神祇管領長上幷南座勾当と称している。

 

 

 

15世紀中頃、細川勝元は上杉憲忠と推される人物に手紙を送り、「熊野新宮造営勧進の為、十石()僧覚賢が下向」することと助成を依頼しており、この頃には新宮造営の勧進のため、諸国に向かう勧進聖の存在したことが確認される。

 

 

 

応安7(1374)の「堀内安房守氏善書状」にみえる、「霊光庵曇哲上人御房」の霊光庵は新宮本願の古い坊名とされ、慶長八年(1603)霜月二十八日付けの「道者寄進礼状」にも「新宮一代庵主霊光院行春」とある。

 

「熊野年代記」には「熊野本願九ヵ寺の内本願所者、新宮庵主、三山の法頭也」とあり、新宮庵主は熊野三山本願所を統轄する「法頭」として各種の免許権、得分を有していた。慶長年間(15961615)に鮮明化した修験道・当山派(真言・醍醐寺三宝院)と本山派(天台・聖護院)の対立は新宮庵主にも及んでいる。

 

 

 

◇元和8(1622)3月、新宮庵主・住持の行尊は天台山門の天海より、延暦寺院号職として「金剛院」を補任される。

 

 

 

比叡山延暦寺院号職金剛院補任状

 

(包紙ウハ書、折封)

 

「補任  金剛院」

 

(端裏貼紙)

 

「は部」

 

補任

 

比叡山延暦寺院号職事

 

熊野山神宮菴主

 

宣任金剛院

 

右以 勅宣之旨、所令

 

補、宣承知者也

 

元和八年三月如意珠曰

 

山門探題大僧正天海印(22)

 

 

 

◇寛永18(1637)、飯道寺梅本院の行筭が新宮庵主に入寺、兼帯する。近江国甲賀にある飯道寺の梅本院と岩本院は当山三十六正大先達衆を構成しており、諸国の修験道・当山派山伏を掌握、多大な勢力を擁していた。以降、新宮庵主は梅本庵主とも呼ばれるようになる。

 

 

 

◇慶安4(1651)、飯道寺の行家が新宮庵主の法灯を継承。

 

 

 

◇寛文6(1666)、行家は醍醐寺三宝院の命により、役行者と理源大師聖宝の御供料徴収のため諸国を巡行する。これについては、三宝院による修験道・当山派支配の一環としてみることができる。

 

 

 

熊野年代記

 

去五年乙巳極月六日、三宝院殿ヨリ御依頼、()行者並聖宝尊師御供料諸国山伏一人前一ヶ所宛為出之、当山方大先達飯道寺梅本院行家法印諸国回国

 

 

 

◇元禄15(1702)、梅本院と兼帯した新宮庵主の住持は行家より行盛、周純と続いていたが、この年、周純の後住弟子の行弁が不如法(詳細は不明)により勘当され、以降、梅本院との兼帯は途絶え、天台僧に替わられることになる。

 

 

 

◇享保10(1725)、新宮庵主・住持の良純は比叡山西塔執行探題から僧綱職に補任される。以降、新宮庵主は比叡山延暦寺末となる。

 

 

 

新宮の西南にある神倉山は、熊野の神が降臨したとされる霊山だ。中世、神倉山のゴトビキ岩を神体とする神倉社にも、妙心寺を本願頭として華厳院、宝積院、三学院という本願寺院があった。妙心寺は「中の地蔵本願」、華厳院は「道の本願」、宝積院は「橋の本願」、三学院は「曼荼羅堂の本願」として、神倉聖は参詣者から橋銭、通行税等を徴収。それを基に堂宇の整備、参道、橋の維持管理を担った。

 

「熊野年代記」によると、大永年中(15211528)より享禄4(1531)にかけての約10年間、神倉本願の妙順尼と弟子・祐珍尼が堂舎再興のための勧進・奉加を行い、元文元(1532)に妙心寺を建て、それにより本願号を免許されている。

 

 

 

熊野年代記

 

享禄四 辛卯 大永年中より今年至八月神倉勧進奉加再興。神倉本願妙順尼代、弟子祐珍尼

 

元文元 壬辰 去年妙心寺へ勧進建依之免許本願号

 

() 本宮の本願

 

 

戦国期と推測される「蠣崎蔵人利広書状」(年次不明、卯月十八日付け)に「本宮庵主坊」とある(熊野本願所史料)。慶長8(1603)の「熊野那智山御遷宮之帳」には「本宮庵主」とある。「熊野年代記」承応3(1654)条に「六月経所上棟、庵主護摩堂繕、本宮庵主行純代」とあり、本宮の庵主・行純の名がみえる。

 

寛文8(1668)、醍醐寺三宝院の役人・飯田備後と超昇寺が寺社奉行に提出した「口上之覚」に、「本宮之庵主、当山方所持致、本宮之社役相勤申候事」(大和松尾寺文書)と記され、本宮の本願は当山派(醍醐寺三宝院)が掌握していたことが確認される。それから19年後、貞享4(1687)4月の「熊野三山本願所九ヶ寺社役行事之覚・本宮庵主社役」には、「本宮庵主天台宗清僧、唯今者無住」(23)とある。わずか19年の間に本宮庵主は当山(真言)から天台(本山)へと変わり、しかも衰退して無住となっている。

 

これら文書は、古来からの聖地である熊野の地が、本・当両派の勢力拡大の主舞台となっていたことを示す史料といえるだろう。本宮庵主は17世紀中頃には退転していたが、傘下にあったと推測される近傍の西光寺では熊野比丘尼らが年籠りし、年始になると牛玉宝印を刷り、諸国へ勧進に出かけていたという。

 

 

() 本願の衰退

 

 

熊野三山の隆盛に多大なる貢献をした本願は定着化し、それまで衆徒・社家が担ってきた諸行事に関わり、祈祷を行うようになった。貞享4(1687)4月、熊野三山九ヶ寺惣代の那智阿弥、大禅院と新宮庵主代・一音房が紀州藩奉行所(寺社奉行)に提出した「熊野三山本願所九ヶ寺社役行事之覚」には以下のように記されている。

 

 

 

「新宮庵主社役」

 

正月元旦より七日之内、御本地供護摩、大般若経転読、牛玉加持致修法、天下泰平・国土安穏之御祈願、暮於御神前、香花・灯明、大乗妙典読誦仕、奉備御法味勤行無懈怠、正五九月之勤同断、其外 御国太主、御城主・諸壇那御祈祷相勤、九月十五日六日御神事祭礼、神馬・神輿・舎人・警固人足以下出し、御神馬常々扶持仕、神輿修覆錺以下等繕仕候・・・・

 

 

 

「那智山七箇寺社役行事」

 

那智山御前庵主・瀧庵主・妙法山・補陀落寺・那智阿弥・大禅院・理性院、右之七ヶ寺者、大乗妙典致読誦、十二所権現之奉備御法味、於御神前朝暮天下泰平・国地安穏御祈仕勤行無懈怠、其外、御国太主御守護・諸檀那御祈祷相勤申候、

 

御神前廻并如意輪堂、其外諸社諸堂不残修理、灯明・香花、御遷宮等相勤申候、雑用賄仕候、瀧本社堂不残修理灯明・・・・(24)

 

 

 

本宮庵主については前に見たように「天台宗清僧、唯今者無住」となっていて、貞享4(1687)の時点では本願としての機能は失っていた。

 

新宮や那智のように神事、祭礼、祈祷等の本願の職務が増してその存在が大きなものとなれば、衆徒・社家の職務と重複し、やがて両者には軋轢が生まれるようになる。延宝3(1675)2月、本願寺院は幕府の寺社奉行所から本願職と修験職の兼帯を禁止されてしまい、修験を廃し本願職に専念することを定められてしまう。

 

 

 

寺社奉行本願所住職定書

 

   覚

 

一 熊野三山本願所住職之輩、如前々偏可勤願職、不可兼修験道事

 

一 止修験道、勤願職面々於令入峯者、以初之袈裟筋可執行之、本山・当山不可混乱事

 

一 本願所後住之儀者、願所九ヶ寺以相談可相定事

 

右条々堅相守り之、不可違失者也

 

延宝三年乙卯二月九日

 

本  長門印

 

戸  伊賀印

 

小  山城印

 

熊野本願所

 

九ヶ寺(25)

 

 

 

また「那智山和談証文写」によれば、延宝5(1677)、那智七本願は社家の古法に承服している。本願勢力は衰退の一途をたどり、元禄15(1702)16(1703)、御前庵主は無住となり、一時的に退転している。続いて正徳3(1713)に理性院が無住に。享保11(1726)に瀧庵主、16(1731)に補陀落山寺が無住となっている。

 

享保6(1721)、社家より修復の会合に入れないとされた本願は幕府寺社奉行に訴え、幕府は本願を会合に入れるよう裁定している。

 

 

 

紀州家申渡状写

 

享保六丑之年社家穀屋和談之節、諸事社家ニ随ひ候様ニ紀州御役所より穀屋江被仰渡候御書付写し

 

熊野本願共

 

当四月、一臈共

 

公儀寺社奉行衆松平対馬守殿より被召呼候節、対馬守殿江補陀洛寺願書出シ候趣、不届之由ニ而社家社僧修復会合江本願共入レ不申候付、右会合ニ入候様ニ仕度旨再往申出候、於江戸表対馬守殿江唯今迄諸事如両輪之務来候由願出候段、不調法之儀候、其上右願差出シ候節、役所江も不相達、直済仕候段旁不届ニ候、乍然九十年来御修復願ニ者、社家社僧共と代々江戸表江茂相詰候事ニ候得者、御修復願主之内ニ者入罷有候儀□此段彼是及出入候而ハ御修復巡行等之障りニ茂可成事ニ候条、本願共之儀も会合江入、諸事相談可仕候、存念之趣も有之候ハハ、修復相済候已後相達可申候、其節御吟味可有之旨、□□社□社僧共江於江戸申聞候處、委細被仰聞候儀ニ候、□此度之義ハ和談之上会合ニ入可致相談候、諸事両輪之様ニ相心得不申、諸事社家共へ相随□相談仕□□ニ致心旨申候間、本願共之□通、相加り候而会合相談可仕候、若存念□有之候ハ、修復相済候上、□達可申候、□味ニ而可有□(26)

 

 

 

元文元年(1736)、幕府より熊野三山へ寄付があり、これをもとに藩と社家が貸付金を運用し修理、造営を賄うことになる。

 

 

 

本宮竹坊大蔵書状

 

  覚

 

拙者儀、当春江戸表へ罷越、自分御年礼相勤可罷帰之処、御側衆大嶋近江守殿より公義御暇過候共暫逗留可仕旨、後御城より御手紙参り候、近江守殿より修理料御相談ニ及申候、仍之御金御寄附ニ罷成申候、

 

一従 公義、熊野三山為御修理料金貳千両御寄附被為遊候旨、当辰ノ三月廿六日、別紙御書付之通松平紀伊守様被仰渡、右御金請取候、手形ニ公儀御役人様方之御裏書を以、同四月十九日ニ御金請取、則紀州様御屋敷へ相納申候、右御寄附ニ付、那智社中之御礼ハ尊勝院、新宮ハ永田大膳江戸御礼被相勤候、本宮ハ先達而大蔵勤候故惣代不下候、右従公儀出候御書付写壹通進之候、御本紙ハ本宮ニ預り納置可申、左様ニ得御心可被成候、

 

元文元年辰ノ六月                   本宮 竹坊大蔵 印

 

      那智山社中御惣代 尊勝院主

 

~以下略~ (27)

 

 

 

延享元年(1744)4月、「寺社奉行衆社法申渡状」が出されて本願勢は敗訴する(延享の裁許) 。そこでは、本願は社家より下位とされ、社中とは社家であり、本願は社家の支配を受ける。更に享保21年・元文元年(1736)に幕府より下賜された寄付金を運用して造営にあたり、それは社家の役目であるとされた。社役、社法、造営から外された本願は、その存在基盤を失うことになってしまった。

 

 

 

寺社奉行衆社法申渡状

 

紀州那智山社家・本願、就社務及争論、吟味之上双方江申渡條々

 

一 社家・本願両輪のことく社役相務之旨本願訴候事

 

社家者世々之 綸旨・御教書執伝、於一山社職之重事勿論に有之、本願者濫觴社役共ニ軽、同格之非社職条、向後両輪同様ニ不可相心得候、

 

 

 

一 本願も社中に篭之旨訴候事

 

一山住居之輩をすへて社中と申儀ハ諸社一同之事候、雖然古来より三之山におゐてハ、社家をさして社中と称し来候、付而ハ其わかれ紛しく及争論といへとも、元来本願ハ起立并社職茂別段にて、既に本願と号する別名有之、延宝三年奉行所より之掟書ニも、修験道を止、偏に願職を可務之旨有之、社家とハ別段之儀候間、自今弥以願職一偏を相務、社家江不可相紛候、

 

 

 

一 社家一臈之支配を不請之旨本願訴候事

 

社家之内より一臈にすすむものハ、一山を令支配、山内上下随其指揮事顕証無疑、自今本願茂一臈之請支配、萬端可随指揮勿論、社役混雑有之間鋪候、

 

 

 

一 本願色衣之事

 

前格無之ニ付、今度九ヶ寺之本願色衣令停止之条、其旨を相心得不可致着用候、

 

但、御前庵主色衣致着用候儀、緃背古法といふとも、東叡山并国主江も不相達、社家共指押候段失礼之至候、自今山内之法たりとも、卒○之働有之間鋪候、

 

~中略~

 

 

 

一 宮社修理之儀者本願之主役たるによつて、破損有之節は本願より願出度之旨訴候事

 

享保二十一辰年従

 

公儀御寄附金有之社家江被 仰渡、当時紀伊殿役人預之、破損之節者社家より相達、被加修補之上者、社家も放て不相拘候、本願者猶以不可差綺儀候、依之願之趣不及沙汰候、

 

~中略~

 

 

 

一 今度社家共差出候那智山依躰定書并社法格式書令点検之上、各加奥印相渡之条、山中永此旨を可相守候、

 

~後略~ (28)

 

 

 

同年には、御前庵主を惣代として瀧庵主、大禅院、理性院、阿弥陀寺が無住であったことが確認される(御前庵主詫状)。補陀落山寺も御前庵主の兼帯となり、延享の裁許以降、那智七本願は御前庵主・補陀落山寺だけが命脈を保つ状態となってしまった。

 

 

 

御前庵主詫状

 

~本文略~

 

延享元甲子年八月 本願中惣代 御前庵主 印

 

御執行代

 

香全院主

 

右本願之内、那智阿弥者在江戸、五ヶ寺ハ無住、補陀洛寺へ拙僧兼帯故致一判申候、以上、

 

御前庵主(29)

 

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